私を深刻に殺すまで

正しい人は嫌い、っていうのはあまりにも枠が広すぎてしんどいから、ちょっと変えてみることにした。正しい人は嫌い、から、正しいことに自信がある人は嫌い、に最近変えてみた。これによって生きやすくなるかどうか、ちょっと試してみよう。

親密な人間関係を築くときには、相手と自分の間に共通の価値基準がないと難しい。そのときにとても便利なものが、(私にとっては非常に残念なことに)正論だ。そして正論は多くの場合「常識」「一般」「普通」という枕詞が伴って語られるから(「常識的に考えてさ〜○○○(正論)」というフレーズは会話の中でよく使われるし、私自身もよく使っている)私の中で正しさはこれらの言葉と同義になってしまっている。悲劇だ。

もちろん、私は上記のような一般論で塗り固められた正義を私に突きつけてくる人が大嫌いなんだけど、他に共通の価値観がない場合はしょうがなしにこれが使われてしまう。そして、他人からの言葉で一番傷つく形態である客観的事実として自分がクズだと思い知らされ辛くなる。この繰り返し。22年間ずっとこればかりを続けてきた。毎日相手からされてきたし、毎日自分もしていた。だからもうそろそろ、これが仕方ないことという覚悟は出来た。

ならばせめて、あなたのその客観的事実に、あなたは確証を持たないでほしい。自信満々で正しいことを言わないで。それか、「私はこう思う」という確固たる自信を持っていたとしても、私の不真面目さを許容する隙間を意識的に作ってやってほしい。私の不真面目さをほんのちょっとだけでも理解してくれる、そんな自我のゆるさを持っていてほしい。私の自我の境界はガバだから、(無い物ねだりで)確固たる自我を持っている人に憧れるし殺意も抱く。しかもその殺意は自己防衛、殺されるから殺すだけ。正論は私を深刻に殺すから、そして私は自分を深く傷つけるであろう正論から自分を守るためにあなたを一生懸命に殺すから、あなたには私に優しくして。頼む。正論がない私には感情しか残ってないの