歪みの正体

裸眼のひとは羨ましい。帰宅してコンタクトレンズを片目だけ外して世界を見るとすごく気持ちが悪い。両目とも外すと世界は全くぼやけてしまう。何もわからない。なにも。部屋着に着替えて雑に髪の毛を結い、メガネをする。でももう8年もレンズを変えてないから、細部までは見えない。世界の細部まで見えない。世界の大体の輪郭しか見えない

普段はいつも、コンタクトレンズをしている

主客未分

自分の感情を言語化しないことは、甘えなんだろうか。自分の中に漠然とした気持ちだけが残ることは、おかしいことなのだろうか。たまにふと、理由もなく心がソワソワして苦しくなることがある。嬉しいのか悲しいのかも分からなくて、でも心は確実に揺さぶられていて、何も分からないのにその心が揺さぶられる感覚だけは確かにあって、そして涙が出る。

感情を言葉にすることは理由を作ることだと思う。理由を作れば他人は(納得するかどうかは別として)理解できる。理由がないと他人は何も理解してくれなくなる。放棄される。それだけは絶対に嫌で、私は今までずっと頑張って逐一感情を言葉にしてきた。共有するために。寂しくならないようにするために。

でもこの期に及んでまだ私は、私の感じた感情が本当にみんなの思うその感情なのか自信を持てなくなる。小学生のころ嫌われたくなくて、人気者になりたくて、友達の見真似で頑張って身につけた感情。私が思っている"悲しい"は、本当にみんなの"悲しい"なのだろうか。私が思ってる"楽しい"は、本当にみんなの"楽しい"なのだろうか。多分違う。人それぞれ違う。そしてそれは永遠に共有できない。

悲しいとか楽しいとか思う前の、もっと純粋で高邁で美しい感情があるはず。感情という名称すら当てはまらなくて、言葉にしたり、理由をつける前段階の何か。私たちが私たちの中で感じたこと、漠然としたソワソワ感みたいなのは、多分本当の意味で純粋なもの。理由をつけるのはナンセンス。でもそしたら説明ができない。こんなに心揺さぶられるソワソワを共有できないの、寂しい。あくまで人は皆、全員孤独ということをはっきりと思い知らせる。私のソワソワもまた、私だけのもの

小さな生命はひかりに引き寄せられた

虫を殺した。暗闇である私の部屋の光源はスマホだけで、それにおびき寄せられたのであろう愚かな小蝿を指で潰した。こんな汚いスマホが発するまやかしの光に寄ってくるなんて、本当に馬鹿な生命だわ。愚かで馬鹿げていて滑稽だけど、それは確かに生命。ほんの少しだけ、殺したことを後悔するそんな夜

人は鏡だから

私には、仲の良い友達がいる。優しく接している友達がいる。大切にしたい友達がいる。それはつまり、相手も私のことを「仲がいいひと」と認識しているし、相手も私に優しいし、相手も私を大切にしてくれているから。どうしようもなく自分がいやな奴に思える時は、こういう風に考えるようにしている。私のことを評価してくれる大切な友達を、疑っちゃいけない。大切なあの人が大切にしてくれている自分を、私が大切しないなんて駄目だ。
何かしらのことで失われた自分への愛情は、自信は、勇気は、自己肯定は、人間関係の中で取り戻すしかない。自分が大切にしている人の人数分、自分も大切にされているはず